この間、散歩をしていると美術館を見つけたので覗くと学芸員さんでしょうか、スタッフの方が本日は入館無料ですとラッセンの絵みたいな呼び込みをしてらっしゃったので時間もあるし見てみるか、となりました。
その美術館は、公的機関で全く怪しくはないのですが。
入館には、コロナ下の定番である体温を測って連絡先と氏名を書くという善意に頼ったチェックを受けます。
私は、まったく絵心がない、と自分では思っています。また、他人の描いた絵を見ても心を揺り動かされたことは一度もありません。
幼少の頃は、両親にいろいろと美術館に連れていかれたのですが、私は見込みがないと判断されたのか、いつしか留守番係になりました。
などと子供の頃の事を思い出しながら、美術館に入るのは恐らく数年ぶりくらいだよねなどと考えます。
さて、美術館に入ると順路通りに進みます。美術館の中で何が繰り広げられているかは全く分かっていません。
どうやら、吉田博さんという方の特別展という事らしいです。
まず、私は絵の鑑賞の仕方がわからないわけです。周りの人を見ると絵の横の解説を読んで、フムフムとしながら絵に近寄ったり離れたりしながら眺めているので私も真似してみます。
例えば、これが私の知っている画家の絵だったら多少なりとも心の底からフムフムと、したり顔の一つでも出来たでしょうが、吉田博さんとは誰だかわからないわけです。
ただし、特別展が開かれるような大人物であることは間違いないのでしょうが。自分の無知を呪います。
順路通りに進み、真面目に絵の横の解説を読んでいきます。どうやら吉田博さんは関東大震災前後で活躍した画家さんらしいというのが判ってきます。
最初のうちは「筆で描いた油絵」でしたがどんどんと作風が変わっていきます。
そして、吉田博なる人物はアメリカに渡って版画を売ることになったらしい。
その頃の絵(版画)は初期の作風とは全く違う、ある種現代的な部分すらある作風になっていきます。
版画と言えばラッセンです。(笑)というのは冗談ですが、当時からすれば画家公認のコピー(ガチ勢から怒られそう)である版画というのは一点モノの絵画と違って何枚も刷れるわけですからビジネスとして最先端だったのかもしれません。
この版画も彫師と刷り師とチームでやっていたそうで、同じ版画で刷り方を変えて朝昼晩のバージョンを作ったりと結構凝っています。
さらに作風が変わっていきます。今度は山岳の絵を筆を使って書いてらっしゃいます。初期の頃のこってりとした油絵とは違い若干淡い色調の絵が多くなっていく印象です。
恐らく、版画時代が全盛期だったのもありその流れで淡い色調になったのかもしれません。
さらに、戦時中になったのか中国や韓国(当時日本が占領していた)の絵が多くなっていきます。この頃の絵は失礼だから印象は言わない方がよいでしょう。
展覧会を一通り見てから、階を変えて吉田博の半生のビデオ上映を見ます。
当時の日本の画壇は留学したりお手本にするのはおフランスだったそうですが、吉田博はアメリカに行って、勉強するんじゃなくて絵を売ってくるというサラッとおかしなことをやってのけています。
ヨーロッパの影響を受けた画家が主流の日本で、アメリカである程度成功しちゃってる吉田博は何度か衝突したらしいです。
まあビジネスとしてうまくいってるので、フランス最高とか言って群れている人に迎合する必要もなかったんでしょうね。
美術品は、その作品を手に取った人が大切に保管してくれることによって価値が出ると私は思っています。
後世になって実物がない美術品は意味がないからです。なんなら、弥生時代の誰が作ったかわからない土器だって今となっては貴重な資料、美術品であるともいえるわけで。
そういった意味でラッセンのように大量生産してる絵は、その大量生産故の保管状態の良さで数百年後に評価される可能性もあるわけです。
芸術も突き詰めていくとビジネスになってしまいますね。需要を創出できなければ、評価すらされない。